国会対策委員長から社会党委員長へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:10 UTC 版)
「村山富市」の記事における「国会対策委員長から社会党委員長へ」の解説
1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。1992年のPKO国会では、国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月に自公民3党の賛成多数で成立。国会対策委員長として国会運営に携わったことから、自民党の梶山静六、公明党の神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つに至った。1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が社会党委員長に就任したが、村山は国会対策委員長に留任した。 同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を回復できず、一方の社会党も新党ブームに埋もれ議席をほぼ半減させた。8月、社会党を含む8会派により非自民連立政権である細川連立内閣が発足。山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明した。後任の委員長には委員長代行久保亘と村山が有力視されるが、委員長選挙への立候補を久保が辞退。9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。当選後、書記長には久保亘を起用した。
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