四月始まる豁然と田がひらけ
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評 言 |
昭和三十七年作。句集『雪嶺』(昭和四十四年 竹頭社)所収。 遷子は、大正八年(十一歳)一家で上京、東大医学部卒業、軍医見習士官として北支へ出征、函館病院内科医長を務め信州佐久に帰郷したのは昭和二十一年(三十八歳)であった。「寒雀故鄕に棲みて幸ありや」「稲苅りし後の寒さは堪へがたし」(『山國』)郷里とは言っても三十年近くも離れていた地である。不安と孤愁の思いが募り、暫くは馴染めなかったであろう。 また、学究肌の遷子にとって、情報・文化の集積地である都会を離れ辺境の地に住むことになったのはよほど寂しかったのだと思う。「天ざかる鄙に住みけり星祭」「薄き雜誌購ひ戻るあたゝかし」「百日紅學問日々に遠ざかる」(『山國』) しかし、遷子は次第に佐久の風土に馴染み、深く愛するようになっていく。 掲句、厳しく長い佐久の冬がようやく終わった四月、目の前に広がる田がいっぺんに開けたようだという。春の光が溢れ、村人が待ちかねたように鋤鍬を持って田に出てくる。遷子は、佐久の自然をこころから愛しただけではなく、そこに住む人々と共に生きていこうという思いをも感じさせる一句である。 「夏樂しこの山國に土着して」(『雪嶺』昭和三十七年作) なお、深谷義紀氏は、「遷子は『高原派』というよりも、むしろ『山國(土着)派』」とでも呼ぶほうが相応しいと思う。」(「相馬遷子論 至高のヒューマニスト」平成十九年『天為』二百号記念特別号)と述べている。 |
評 者 |
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備 考 |
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