告発に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 02:06 UTC 版)
「ウラジーミル・ブルツェフ」の記事における「告発に至るまで」の解説
タタロフの死後も党への弾圧や暗殺計画の失敗が起き、党内にはまだ内通者が残っていることがうかがわれた。『Russia Beyond(英語版)』の記事によれば、ブルツェフは1906年にオフラーナの元局員に会い、党上層部の1人が政府に内通しているとの証言を得たという。ブルツェフはタタロフの事件を調べ、タタロフ殺害を強く主張したアゼフの態度を不自然に感じた。彼はまた、アゼフが暗殺計画の現場に一度も立ち会っていないこと、全ての暗殺計画に関与していた唯一の人物であること、逮捕者が出たときもアゼフだけは無事だったことに着目した。だが同時に、アゼフを告発しても逆に自身がオフラーナに内通して冤罪を仕組んだと思われるだろうと自覚してもいた。 1908年、ペテルブルクで革命雑誌『Byloe』の編集長をしていたブルツェフの元へ亡命を希望する人物が現れた。彼、ミハイル・バカイ (Mikhail Bakai) はオフラーナの局員としてワルシャワで活動していた人物であり、ブルツェフにオフラーナに関する大量の情報を提供したもののすぐに逮捕されてしまった。だが、バカイは逃亡に成功し、新情報を携えて再びブルツェフを訪ねた。新情報の中には、彼の亡命を告発したエージェント「ラスキン」 (Raskin) の名前があった。当時バカイの亡命を知っていたのは党指導者層のごく一部であり、中でもワルシャワにいたのはアゼフ1人だった。
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