同計画の後退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 20:23 UTC 版)
「満洲産業開発五カ年計画」の記事における「同計画の後退」の解説
国共合作による中国側の本格的な抗戦により、日本側の予想に反し日中戦争が、拡大かつ長期化すると同計画にも矛盾と混乱が生ずるようになった。計画実現に必要な資金や資材の日本からの供給が困難になる一方で、長期消耗戦に直面した日本の軍需をまかなうため、「満洲国」に対する対日供給の要求は日に日に苛酷化した。そのため同計画4年目の1940年(昭和15年)度から「徹底的重点主義」に移り、最も重要な鉄鋼や石炭に増産努力を集中して、その他の部門は計画を縮小あるいは中止せざるを得なかった。この段階で同計画は、生産力の拡充という本来の目的を失い、現有設備での最大の生産をあげるという増産の強行にすぎなくなった。このことは必然的に、国策会社等の各生産部門における労働の強化と労働条件の悪化をもたらした。もともと本「満洲産業開発五カ年計画」をはじめとする日本側の「満洲国」に対する過剰な鉄道および重工業への投資は、総力戦体制構築という外的要因によって「満洲国」に対して押し付けられたものであって、その経営効率は一般に悪く、日本経済にとっても大きな負担となった。それゆえ1940年代になって、この方向は半ば放棄され、「満洲国」自体も「大東亜共栄圏」における食料供給基地という位置付けになっていくのである。
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