吉高勘解由とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 吉高勘解由の意味・解説 

吉高勘解由

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 08:12 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
吉高勘解由
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化4年(1807年
死没 明治元年(1868年
改名 弥十郎(幼名)
別名 峯右衛門、勘解由
主君 戸沢正胤正令正実
出羽新庄藩
氏族 吉高氏
父母 吉高織部
晋六郎
テンプレートを表示

吉高 勘解由(よしたか かげゆ)は、江戸時代後期の武士出羽国新庄藩家老。実名は不明。

出自

吉高氏本姓源氏家系清和源氏の一流河内源氏の傍流・甲斐源氏の流れで、信濃国守護小笠原氏の一門小笠原光冬が出羽楢岡城主となって以降、楢岡氏を名乗るようになり、さらに楢岡光信の四男が義高勘解由を名乗り、新庄藩2代藩主・戸沢正誠に仕え、吉高姓を称するようになったのが始まりとされる。代々、勘解由を名乗るが、本項では6代勘解由について解説する[1]

生涯

文化4年(1807年)、吉高織部の嫡男として誕生。幼名を弥十郎といい、長じてからは峯右衛門、そして代々継承する勘解由を名乗った。

文政12年(1829年)、22歳で家督を継ぎ、若くして寺社奉行格となり、御取次役に任ぜられた。文政13年(1830年)寺社奉行となり、さらに天保3年(1832年)に9代藩主・戸沢正胤の前で御用人を命ぜられたが、不慎の儀ありとして役職を免ぜられ、御内証無役に降任された。しかし、天保11年(1840年)、正胤が隠居し戸沢正令が10代藩主となって、勘解由への譴責が解かれ、再び寺社奉行に返り咲き、天保13年(1842年)御用人を当面、寺社奉行と兼務することを命ぜられた。天保14年(1843年)、大殿様付となり、正胤に侍した。しかし、同年、藩主・正令が亡くなり正実が家督を継いだ。

11代藩主・正実は家督相続時に12歳と若年で、政務は前々藩主・正胤が見たため、勘解由はその下にあって政務を補佐、天保15年(1844年)に近習頭・御用書加判を命ぜられた。勘解由は前々藩主・正胤の下で嘉永の藩政改革に従事し、弘化2年(1845年)、御手元並郷中御備米掛、中老を経て、弘化3年(1846年)、家老に任ぜられ150石を加増された。

嘉永4年(1851年)、藩政改革が実を挙げたことから恩賞として100石を加増され、500石取りとなった。嘉永5年(1852年)、病を得て御役御免を願ったが藩主の信任厚く許されず、嘉永7年(1854年)にも再願も却下され、城内台所まで駕籠で登城して良いとの許しを得た。慶応2年(1866年)に隠居し、家督を晋六郎に譲ったが慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると新庄藩は奥羽列藩同盟に加わらず、新政府軍についたため、庄内藩の猛攻により落城し、新庄勢と共に秋田藩領内に敗走、勘解由もこれに随った。

明治元年(1868年)、秋田の地で没した[1]

脚注

  1. ^ a b 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (1)』 (新人物往来社、1988年) 408頁参照。

出典

  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (1)』 (新人物往来社、1988年) ISBN 4404014716



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「吉高勘解由」の関連用語

1
76% |||||

2
16% |||||

3
8% |||||

吉高勘解由のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



吉高勘解由のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの吉高勘解由 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS