吉保と学者の交流とは? わかりやすく解説

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吉保と学者の交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:01 UTC 版)

柳沢吉保」の記事における「吉保と学者の交流」の解説

吉保は綱吉文治政治恭順するために儒者多く召し抱え儒学発展少なからぬ役割果たした有名な者には新井白石ライバル存在として知られる荻生徂徠、また赤穂事件を裏から支援していたことで知られる細井広沢がいる。 荻生徂徠綱吉侍医荻生方庵の次男で、延宝7年1679年)に方庵が綱吉咎められる一家江戸から上総国長柄郡本納へ移る。方庵は元禄5年1692年)に赦免された。徂徠江戸へ戻ると私塾開いていたが、元禄9年1696年)に吉保に十人扶持召し抱えられた。後に加増されて500石となり、宝永3年1706年)には吉保は永慶寺霊台寺)の碑文作成に際して甲斐国地勢調査する目的から、徂徠田中省吾甲斐へ派遣する徂徠甲斐国見聞記録紀行文風流使者記』『峡中紀行』としてまとめている。徂徠綱吉死去し吉保が隠居すると、宝永6年1709年)に江戸日本橋茅場町私宅「蘐園(けんえん)」を構え徂徠学派は蘐園派と呼ばれた徂徠将軍徳川吉宗にも諮問受けている。 細井広沢はのちに側用人松平輝貞不興を買い、輝貞から柳沢家執拗に細井放逐せよという圧力があったため、やむなく放逐されたが、その後も吉保は浪人した広沢年間50両もの支援金送って親交持ち続けたという。

※この「吉保と学者の交流」の解説は、「柳沢吉保」の解説の一部です。
「吉保と学者の交流」を含む「柳沢吉保」の記事については、「柳沢吉保」の概要を参照ください。

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