吉保の隠居と晩年
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宝永6年(1709年)2月19日、将軍綱吉が死去すると幕閣の状況は一変した。幕政の中心は新将軍家宣とその家臣である間部詮房らに移り、綱吉の近臣の勢いは失われていった。同年5月28日に吉保は隠居を願い出て、6月3日にこれが許されると吉里が柳沢家の家督を相続した。以降は保山と号した。同年6月3日に吉保は子の経隆・時睦に甲斐国山梨郡・八代郡の新墾地1万石を分地し、甲府新田藩が成立する。 隠居後は江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園の造営などを行った。正徳2年(1712年)には定子が死去し、甲府近郊の岩窪村に建立された永慶寺(甲府市岩窪町)において葬儀を実施する。同年11月晦日には祖父・信俊の百回忌を川越領今市の高蔵寺において実施している。正徳4年(1714年)9月27日には持病の再発により病臥し、同年11月2日に死去した。享年57。法名は永慶寺保山元養。 遺骸は甲斐国へ移送され、同年11月12日には永慶寺に到着し、11月12日から11月21日にかけて、永慶寺住職の悦峯道章(えっぽうどうしょう)により葬儀が実施される。享保9年(1724年)3月11日に吉里は大和国郡山への転封を命じられ、永慶寺の大和郡山移転に伴い同4月12日に吉保夫妻の遺骸は恵林寺(甲州市塩山小屋敷)へ改葬され、現在まで恵林寺が吉保の墓所となっている。 死後200年を経た大正元年(1912年)には従三位が贈位されている。
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