吉保の隠居と晩年とは? わかりやすく解説

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吉保の隠居と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:01 UTC 版)

柳沢吉保」の記事における「吉保の隠居と晩年」の解説

宝永6年1709年2月19日将軍綱吉死去する幕閣状況一変した幕政中心は新将軍家宣とその家臣である間部詮房らに移り綱吉近臣勢い失われていった同年5月28日に吉保は隠居願い出て6月3日にこれが許される吉里柳沢家家督相続した以降は保山と号した同年6月3日に吉保は子の経隆・時睦に甲斐国山梨郡八代郡新墾1万石を分地し、甲府新田藩成立する隠居後江戸本駒込東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし綱吉が度々訪れた六義園造営などを行った正徳2年1712年)には定子死去し甲府近郊の岩窪村建立され永慶寺甲府市岩窪町)において葬儀実施する同年11月晦日には祖父・信俊の百回忌川越今市高蔵寺において実施している。正徳4年1714年9月27日には持病再発により病臥し、同年11月2日死去した享年57法名永慶寺山元養。 遺骸甲斐国移送され同年11月12日には永慶寺到着し11月12日から11月21日にかけて、永慶寺住職悦峯道章(えっぽうどうしょう)により葬儀実施される享保9年1724年3月11日吉里大和国郡山への転封命じられ永慶寺大和郡山移転に伴い4月12日に吉保夫妻遺骸恵林寺甲州市塩山小屋敷)へ改葬され、現在まで恵林寺が吉保の墓所となっている。 死後200年経た大正元年1912年)には従三位贈位されている。

※この「吉保の隠居と晩年」の解説は、「柳沢吉保」の解説の一部です。
「吉保の隠居と晩年」を含む「柳沢吉保」の記事については、「柳沢吉保」の概要を参照ください。

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