古代ギリシャの植民地、ローマ帝国の拠点とは? わかりやすく解説

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古代ギリシャの植民地、ローマ帝国の拠点

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 19:11 UTC 版)

ポモリエ」の記事における「古代ギリシャの植民地、ローマ帝国の拠点」の解説

アンヒアロスポモリエ)は、おそらく紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろ、アポロニアApollonia現在のソゾポル)の植民地として建設されたと考えられ、その名前はストラボンの『地理誌』に小さな町として記載されている。紀元前2世紀アンヒアロス一時期メッセンブリア(Messembria、現在のネセバル)によって征服されたが、アポロニアによって再征服され、要塞化された壁は破壊された。アンヒアロスの名前は古代ギリシャ語の「anchi-」(近くに)と「als-」(塩、あるいは海を表す詩的な語)に由来している。紀元前72年-紀元前71年頃から始まったローマ帝国攻勢の後、黒海西岸地域紀元前29年から紀元前28年にかけて、マルクス・リキニウス・クラッスス統治下のローマ帝国によって完全に征服された。アンヒアロス要塞化城壁この間に再び建造されたことが、トミスコンスタンツァ)へ向かったオウィディウスによって紀元9年明らかにされている。紀元1世紀初期アンヒアロスオドリュサイ王国en)の戦略的拠点となり、ビザンティン帝国初期の歴史プロコピウスによると6世紀にはトラキア人居住していた。オドリュサイ王国自治独立紀元45年停止されアンヒアロスローマ属州トラキア一部となり、町は公式に皇帝トラヤヌスのものと宣言された。この頃、町はアウグスタ・トラヤナ(スタラ・ザゴラ)に接す広大な領地支配し、西はトゥンジャ(Tundzha)、北はメッセンブリア、南はブルガス湖(en)にまで及んでいた。アンヒアロスローマ都市様相呈し、特に2世紀から3世紀にかけてセウェルス朝の元で大きく栄えトラキアで最も重要な輸出入拠点として富を蓄えた

※この「古代ギリシャの植民地、ローマ帝国の拠点」の解説は、「ポモリエ」の解説の一部です。
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