参考①・木幡經清1(大膳 后因幡)
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木幡盛清の死後、相馬盛胤によって木幡氏嫡流とされた木幡政清(出羽)の名跡を継いだ。 官途名・受領名は木幡大膳 后因幡と称す。 行方郡千倉庄(現在の南相馬市鹿島区千倉)一郷(陸奥真野郷)の侍大将として活躍した。 天正16年(1588年)5月の相馬義胤の三春城の危難のときに従軍し、同年6月の田村領浅川塁(石川郡浅川町)攻めのとき戦功をあげた。 また同17年(1589年)5月17日、田村領常盤(田村市常葉町地区)攻めのときに軍功。 同18年、5月14日、伊達勢と駒ヶ嶺に戦い、相馬敗軍のとき、相馬盛胤に従い殿軍を務め、敵を討ちながら退却。「其の功抜群なり。此の他、処々の戦陣に軍功を竭す。」と評された。本領五百二十九石、後に牛越村(南相馬市原町区牛越)に移住。 元和4年(1618年)2月9日に死去した。「衆臣家譜」には年数不知(没年齢知らず)とある。 木幡政清(出羽)――經清(大膳 后因幡)――長清(勘解由)――信清(薩摩) | |―某(内膳)無子孫(原文ママ) | |―某(主殿)無子孫 采地222石(原文ママ) |―胤重(藤橋作右衛門)外祖父藤橋紀伊胤泰養子 母者同經清 |―女(岡田左衛門胤政妻)母川俣館(伊達郡川俣町)主櫻田右兵衛宗秀女 |―清光(源兵衛)母同上 妻牛来弥兵衛女 |―清重(半平)系在別(別の系譜あり)
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