原田定市とはらだ丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:48 UTC 版)
1886年(明治19年)、北阿万村生まれの原田定市は北阿万の役場に勤務していたが、沼島の村長の依頼で沼島に単身赴任し、昼は沼島の役場に勤め、夜は発電所の修理をしていた。当初は3年間の予定だったが、世話好きだった定市はその後46年間に渡り数々の事業に取り組み、82歳で亡くなるまで沼島の発展に貢献した。簡易水道の設置、海底ケーブルの開設、プロパンガスの導入などで、島民から感謝され成功を収めた。中でも、もっとも大きな事業は沼島-洲本航路の開設であった。当時、島民が洲本への往来が不便であったことを、解決しようと59歳の時に開設を決意した。 1946年(昭和21年)、重量21トン、定員30人の木造貨客船「原田丸」を就航させ、のちに「第二はらだ丸」も運航したが老朽化が激しく、新たに重量37トン・定員100人の鉄鋼船の「第三はらだ丸」の運航を始める。建造費は現在の貨幣価値で4,000万円〜8,000万円であった。定市は灘、沼島の人々にとってこの航路の必要性を痛感し、赤字覚悟で私財を投入し「はらだ丸」の経営を続けた。島民は『「第二はらだ丸」と比べると、「第三はらだ丸」は遊覧船のようだ』と言い、涙を流してこの航路を喜んだと伝えられる。これが現在の沼島汽船である。乗船料は200-300円、その後、400円から-600円くらいだった。
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