南行航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 00:20 UTC 版)
「シャクルトン=ローウェット遠征」の記事における「南行航海」の解説
1921年9月17日、クエストは、国王ジョージ5世の検査後にロンドンのセントキャサリンズ・ドックを出港した。大群衆が川岸と橋の上に集まり、この行事を見守った。マーはその日誌に「ロンドン中が共謀して我々に心からの別れを告げようとしている」かのようだったと記していた。 シャクルトンの当初の考えでは、途中南大西洋の島々に寄りながらケープタウンまで南下することにしていた。ケープタウンからは南極のエンダービーランド海岸に向かい、氷に出逢えば、ウェッデル海のコーツランドの方向に海岸線を探検することにしていた。夏の終わりには、サウスジョージアを訪れてからケープタウンに帰り、2年目の作業のために装備と準備を行うことにしていた。しかし、旅の初期段階で船の性能が出ないために、スケジュールが狂ってきた。エンジンに関する重要な問題でリスボンに1週間滞在し、マデイラやカーボベルデ諸島でも停船した。これらの遅れや、船の速度が出ないことで、シャクルトンは南大西洋の諸島を訪問する予定を全て取りやめて、エンジンを分解整備させられるリオデジャネイロに行き先を変えた。クエストは1921年11月22日にリオに到着した。 エンジンの分解整備、および損傷を受けたトップマストの取り換えとで、リオでは4週間滞在することになった。このことはケープタウンに行ってから氷に向かって行っても実際的ではないことを意味していた。シャクルトンは直接サウスジョージアのグリトビケン港に向かうと決断した。ケープタウンに送られていた装置や物資は受け取れないことになったが、シャクルトンは、足りない分をサウスジョージアで賄えると明らかに期待していた。シャクルトンはサウスジョージアに着いたあとの遠征隊の行く先についてははっきり決めていなかった。マクリンはその日誌で「ボスはこの先何をするか分かっていないと全く明け透けに言っている」と記した。
※この「南行航海」の解説は、「シャクルトン=ローウェット遠征」の解説の一部です。
「南行航海」を含む「シャクルトン=ローウェット遠征」の記事については、「シャクルトン=ローウェット遠征」の概要を参照ください。
- 南行航海のページへのリンク