南禅僧堂時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:56 UTC 版)
1916年(大正5年)南禅僧堂の雪安居に掛搭した。管長であり僧堂師家は南針軒、河野霧海老師。1918年(大正7年)の大接心の写真を見ると、南針軒老師を中心に、修行僧の雲水35名程と袴姿の居士も10名以上写っていて、当時の華やかな時代が偲ばれる。 後に河野霧海の法嗣となった有力な弟子達には、南禅僧堂に掛搭した順で言うと、1907年(明治40年)に掛搭して後に大徳寺派管長となった森山歓渓(1889-1955)、次に1915年(大正4年)に掛搭し、自らも多くの法嗣を育てた中村泰祐(1886-1954)がいる。中村泰祐は後に東京八王子の廣園僧堂師家となり更に晩年は建仁寺派管長となっている。また、英才と言われ河野霧海の既に後継者であった華山大義(1889-1945)がいた。彼は1920年(大正9年)に南禅僧堂に掛搭して、1929年(昭和4年)にソウルの妙心寺別院住職となり、1942年(昭和17年)には既に南禅僧堂師家を兼任することとなった。 河野霧海の有力弟子として、掛搭の順番で言うと全慶は最も遅い1916年であり、年齢順に言ってもやはり全慶は最も若い弟子であった。 全慶は、南禅僧堂で1916年(大正5年)から1923年(大正12年) (22歳~29歳)まで、厳しい修行に明け暮れた。
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