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千種有任

読み方:ちぐさ 

幕末・明治公卿有文の男、実は有功二男正四位掌典子爵御歌所参侯。明治5年1872)歿。

千種有任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 16:14 UTC 版)

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千種 有任
千種有任
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保7年11月4日1836年12月11日
死没 明治25年(1892年9月2日
官位 従三位宮内権大丞
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 千種家
父母 父:千種有文
四辻正子(四辻公積の娘)
有冬、有梁、有辰、任子、美寿子
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千種 有任(ちぐさ[1] / ちくさ[要出典] ありとう)は、江戸時代後期の公卿。維新後は子爵。千種有文の子。官位従三位宮内権大丞

経歴

安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件慶応2年(1866年)の廷臣二十二卿列参事件に参加した。

戊辰戦争の際は大坂に親征。1869年右近衛権少将。1870年伊那県知事に就任したが、わずか1か月で宮内権大丞に任じられたため解任。その後は群馬県御用掛、宮内省御用掛、御歌所参候などを務めた。明治17年(1884年7月8日に子爵に叙された。

系譜

千種有冬
  • 父:千種有文
  • 母:不詳
  • 妻:四辻正子 - 四辻公積の娘
    • 男子:千種有冬 - 1856年生。明治19年(1886年)廃嫡分家
    • 女子:千種任子(1855-1944) - 明治天皇権典侍源氏名は花松。1881年に天皇の第三皇女・滋宮韶子内親王、1888年に第四皇女・増宮章子内親王を産んだが、1888年9月に滋宮は下谷区二長町の嵯峨実愛邸にて、増宮は麹町裏霞が関の堀河康隆(堀河康親の孫)邸にて3日の間に相次いで夭折した[2]。二人とも脳膜炎が原因で、漢方医の浅田宗伯、洋医の池田謙斎が治療にあたり、増宮には軍医の橋本綱常も呼び寄せたが治療の甲斐なく亡くなった[2]
  • 生母不明の子女

栄典

脚注

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  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、88頁。
  2. ^ a b 明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題深瀬泰旦、日本医史学雑誌 第61巻第2号(2015)
  3. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。

参考文献

日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
千種家初代
1884年 - 1892年
次代:
千種有梁


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