労働者不足の解消
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
ブラジルはアフリカ大陸から送り込まれる奴隷をコーヒー園などにおける農業労働者として重用していたものの、奴隷制度に対する内外の批判を受けたことから、1888年に奴隷制度廃止を行った。その後農業労働者が不足することとなったため、イタリアやスペイン、ドイツなどのヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めた。しかし農場労働者としてブラジルに渡ったイタリア人移民が、奴隷と変わらぬ住環境や労働の過酷さ、賃金の悪さなどの待遇の悪さのために反乱をおこし、その後移民を中止したために再び農業労働者が不足することとなった。 これを受けてブラジル政府は、1892年に日本人移民の受け入れを表明したものの、日本とブラジルとの間に正式な外交関係がないため日本からの移民を送り出すことができなかった。その後1894年に「殖民協会」の根本正がブラジルへ赴き、ブラジルが日本人移民にとって適切な移民先であるとする報告を行い、翌1895年には日本とブラジルの間で「日伯修好通商航海条約」が結ばれ、1897年にはリオ・デ・ジャネイロ州ペトロポリスに日本の公使館が設けられた。
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