初期の鉄道建設とその挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:55 UTC 版)
「マデイラ・マモレ鉄道」の記事における「初期の鉄道建設とその挫折」の解説
ジョージ・アール・チャーチは、現地調査の結果、事業化を決断し、ボリビアで資金を集めて会社を設立した。当初はマデイラ川とマモレ川の滝や急流を避ける運河の開削を考えていた。1870年、ブラジル政府からマデイラ川に沿った鉄道の営業権を手に入れた。1872年、イギリスのパブリック・ワークス・コンストラクション社(英: Public Works Construction Co.)と工事請負契約を結び、最初の工事が始まった。しかし、工事労働者の間にマラリア、脚気が蔓延し、1年余りでパブリック・ワークス・コンストラクション社は撤退した。ジョージ・アール・チャーチは出資者との間で長期間の裁判に巻き込まれた。 しかし、ジョージ・アール・チャーチは、鉄道建設を諦めなかった。1878年、今度はアメリカ資本のフィリップ・アンド・トマス・コリンズ社(英: P.&T. Collins)と契約を取り交わし、工事を再開した。ジョージ・アール・チャーチとコリンズ社は一回目の失敗をよく検討し、熱帯地帯の鉄道建設の経験のある技術陣と、世界各地から集めた労働者を投入し、万全を期した。しかし、5,000人を超す労働者のうち、マラリア、黄熱病、脚気、アメーバ赤痢が原因で死者は1,000人に達した。また逃亡者も多かった。難工事により建設コストは上がり、資金難に陥った。1879年、コリンズ社は破産し、工事は中止となった。持ち込まれた多くの建設資材や蒸気機関車がジャングルの中に打ち捨てられた。そして、ブラジル政府はジョージ・アール・チャーチとの契約を破棄した。
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