初期の開催
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:05 UTC 版)
「フューチュリティステークス (アメリカ合衆国)」の記事における「初期の開催」の解説
記念すべき第1回フューチュリティの開催よりも1年半前に遡る1887年3月には既に、1889年に予定されている第2回フューチュリティの詳細が発表されていた。815頭の登録があり、オーガスト・ベルモントは一人で28頭もエントリーしていたが、40頭や50頭を登録している馬主はザラにいて、たいていの生産者が半ダースから15頭ほどを登録していた。賞金の総額は75000ドルに達すると見積もられていた。 それから2年後の1889年9月4日のレイバーデイのシープスタッドベイ競馬場には23頭の若馬が集った。馬券が一番売れていたのはオーガスト・ベルモントのセイントカルロ(St.Carlo)で、西海岸のカリフォルニアからはキングトーマス(King Thomas)もやってきた。この年のゴール前は大混戦になって、勝ったのがどの馬か観客には全くわからなかったが、決勝審判はケイオス(Chaos)1着、セイントカルロ2着と判定した。進路妨害沙汰のあった前年のゴールが後味の悪いものだったの対し、この年は1、2着の馬主はすんなりと結果を受け入れた。一説では、セイントカルロの騎手がブックメイカーと八百長を仕組み、ゴール寸前でわざと手綱を抑えたという。優勝賞金は6万3000ドルと言われている。 3回めのフューチュリティステークスは、オーガスト・ベルモントのポトマック(Potomac)が優勝して7万ドルの賞金を手にした。2着も同厩のマッシャー(Masher)で、3着にはジュニアチャンピオンステークス勝馬のストレイスミース(Strathmeath)が入った。
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