刊行までの流れとは? わかりやすく解説

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刊行までの流れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 06:30 UTC 版)

新定画帖」の記事における「刊行までの流れ」の解説

1905年明治38年)『教育研究』の9月号に阿部七五三吉が普通教育における図画は単に絵画的なものを教えではなく、普通の形体を描くために図的なものと画的なものを教えるべき、と述べたことなどをきっかけ日本普通教育における図画教育教育的見地立って作り上げていくべきだという動きとなっていた。世界美術教育においても、1900年明治33年フランスパリ第1回世界図教育トルツメ会議、翌1901年明治34年)にはドイツドレスデンでの第1回芸術教育会議が行われている。こうした世界図教育会議などをきっかけに、文部省1902年明治35年)に「普通教育に於ける図画取調委員会」を設けた。この委員会欧米諸国図画教育調査し、そこから日本普通教育における図画教育はどうあるべきかについて検討し報告書1904年明治37年8月15日の「官報」において発表した委員正木直彦黒田清輝瀧精一上原六四郎白浜徴、溝口二郎小山正太郎鵜川三郎であった。この委員会によって、『新定画帖』の誕生など、図画教育一つ転機迎えることとなる。 『新定画帖』は「普通教育に於ける図画取調委員会」のメンバーであった正木直彦上原六四郎小山正太郎白浜徴に阿部七五三吉を加え編纂されたものであるが、その際1904年明治37年)に同委員会により提出され我が国普通教育における図画教育あり方についての報告書多分に活用されている。この報告書欧米諸国図画教育調査研究をもとに日本における図画教育在り方検討をされたものだが、委員会メンバーである白浜は、米国図画教育実際に見聞しており、彼の我が国図画教授外国図画教授並行していかねばならぬ」とする思想大きく反映している。

※この「刊行までの流れ」の解説は、「新定画帖」の解説の一部です。
「刊行までの流れ」を含む「新定画帖」の記事については、「新定画帖」の概要を参照ください。

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