分離とノルウェー=スウェーデン同君連合
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「デンマーク=ノルウェー」の記事における「分離とノルウェー=スウェーデン同君連合」の解説
ノルウェー人は、スウェーデンへの併合を避けるため、独立し、同時代のヨーロッパにおいて最も自由な憲法を制定しようと試みた。ノルウェーの王位継承者でもあったクリスチャン・フレゼリクは独立運動の指導者となり、エイツヴォルに憲法制定議会を招集した。この議会は1814年5月17日にクリスチャン・フレゼリクを独立ノルウェーの国王に選んだ。 しかし、ノルウェーのこの独立は長続きしなかった。王太子カール・ユーハン率いるスウェーデン軍が7月に侵攻し、8月14日にノルウェーは休戦を余儀なくされた。クリスチャン・フレゼリクは臨時議会を召集し、退位を表明した。議会はスウェーデンとの同君連合に必要な憲法修正を行った。5月17日のエイツヴォル憲法の大部分は維持することを許され、11月4日にノルウェー議会は、形式上は自発的に、スウェーデンのカール13世を国王に選出した。この連合はかなり緩やかなものであり、両国に共通なのは国王と外交のみであった。 ノルウェーはスウェーデンとの連合を強いられたが、デンマークとの文化的な絆の多くは依然として保たれた。1811年に設立された王立フレゼリク大学(現在のオスロ大学)によって、ノルウェー人はもはや教育を受けるためにコペンハーゲンに行く必要がなくなったが、ノルウェーの教育制度は依然としてデンマークのものと似通っていた。後にリクスモールと呼ばれることになるノルウェーの書き言葉もまた、20世紀初めに至るまで概してデンマーク語と同様であった。ただし19世紀中期には、オーセンによって作られたランスモールという新たな書き言葉も登場する。 1814年前後のナショナリズムの高揚に伴い、ノルウェーの立場からデンマークを批判するパンフレットも発行されていた。こうした形で見られるようなデンマークに対する不快感は、スウェーデンとの連合時代に入っても残り、デンマークとの連合はしばしば否定的に「400年間の夜」と呼ばれもした。しかし、その後の研究によって示された時代像は、功罪両面に光を当てたより具体的なものとなっていく。
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