出所者の保護事業とは? わかりやすく解説

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出所者の保護事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:56 UTC 版)

川村矯一郎」の記事における「出所者の保護事業」の解説

立志社の獄により3度目入獄となった一郎静岡監獄収監されるが、そこで同じく立志社の獄連座静岡監獄収監されていた岡本健三郎紹介受けて金原明善出会う。矯一郎食事が不十分で不衛生な監獄熾烈な環境を明善に話したところ、明善はいたく同情して1880年明治13年)に出所者の保護目的とした勧善会を組織するまた、出所後は明善が率い天竜川治水事業尽力していた。その後1882年明治15年)には関口隆吉県令のもと矯一郎静岡監獄の副典獄(副刑務所長)に採用され監獄内の待遇改善囚人訓戒注力した。1888年明治21年)には、勧善会を社団法人としての静岡県出獄保護会社改組し、矯一郎副社長として日本最初に出所者の保護事業に着手した。この出獄保護会社出所者が会社での労働得た賃金の内、生活費控除した分を会社積み立て行い積立額が55円が達した際に出所者へ返金され新生活資本とする仕組みになっていた。 しかし、まもなく矯一郎肺炎罹り1890年明治24年1月事業発展を見ることなく逝去する。だが、この会社の設立契機として浄土真宗本願寺派真宗大谷派等の宗派僧侶キリスト教徒一部個人によって各地釈放保護団体設置されるようになり、現在の保護司制度原点となったとされる。なお、静岡県出獄保護会社は、後に組織改め財団法人としての静岡県勧善会」となり、今も更生保護事業進めている。

※この「出所者の保護事業」の解説は、「川村矯一郎」の解説の一部です。
「出所者の保護事業」を含む「川村矯一郎」の記事については、「川村矯一郎」の概要を参照ください。

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