凱旋門賞参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 05:00 UTC 版)
松本は凱旋門賞を「数あるビッグレースのうちで『自分のなかでは一番』」と捉えており、そこに所有馬を出走させることは「馬主としての夢」「生涯の夢」であるとしていた。メイショウサムソンでその凱旋門賞を意識したのは、東京優駿優勝を記念した集まりの際、社台の吉田照哉、吉田勝己兄弟から「この馬は欧州血統だから是非とも凱旋門賞に挑戦させるべきだ」と勧められたことがきっかけだったという。メイショウサムソンが東京優駿を優勝したその年の秋には、クラシック三冠を果たすなど11戦10勝2着1回の身で臨んだディープインパクトが3位入線していた。松本は、ディープインパクトでも通用しなかったことで、一時凱旋門賞参戦を諦めようとも考えたが「あのディープ(インパクト)でさえ負けたんだから、(メイショウ)サムソンで負けても別にどうってことないじゃないかという思いが膨らんできたんです。むしろ気分的には楽やな(カッコ内補足加筆者)」と開き直りに成功している。中でも松本の希望は「最高の状態で、最高のジョッキーで」凱旋門賞に臨むことだった。 約半年後の2007年、4歳となる春、普段は方針について口出ししない松本が、高橋へ外国遠征の意向を伝えている。高橋は、それまで管理馬の外国遠征が実現したことはなかったが構想が持ち上がったのは、1991年秋の短距離界を沸かせたケイエスミラクル以来であった。ケイエスミラクルでは、アメリカのブリーダーズカップに参戦する可能性があったが、1991年末のスプリンターズステークスで故障。予後不良となっていた。
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