再試合規定制定の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 00:05 UTC 版)
「延長引き分け再試合規定」の記事における「再試合規定制定の経緯」の解説
高校野球の黎明期には延長回数を制限する規定や試合を途中で打ち切るルールが存在せず、その結果、1933年(昭和8年)の中京商業対明石中学の延長25回の死闘のような試合が生まれる結果となっていた。この試合について、大会本部は「勝負がつかなくても25回で打ち切る」と決定していた。その後も、実に25年にわたって、試合の延長回数が長くなった場合の打ち切りに関するルールが設定されるには至らなかった。 現在の延長引き分け再試合が設定される契機となったのは、1958年(昭和33年)、春季四国大会での板東英二の投球であった。この大会に徳島商業高校の投手として参加していた板東は、対高知商業戦で延長16回、翌日の対高松商業戦で延長25回をいずれも一人で完投した。これまで甲子園大会での延長回数は無制限であったが、2日間で41イニングを投げた板東の姿を見ていた高野連の幹部役員が連盟や大会本部に働きかけ、第40回全国高等学校野球選手権大会より次のルールが制定された。 延長18回を終えて同点引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う。 板東は、この年の第40回全国高等学校野球選手権大会において、準々決勝の対魚津高校(富山)戦で延長18回引き分け再試合を演じ、奇しくもこの規定の初適用者ともなった。
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