再度の閉鎖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:07 UTC 版)
日本が太平洋戦争に突入した後、1944年夏まで東京で活動していたが、連合軍の空襲の可能性が出てきたことにより、一部の通信班を残してハインリヒ・ゲオルク・スターマー大使らは、足柄下郡箱根町宮ノ下の富士屋ホテルに、残りは河口湖畔の富士ビューホテルとと世田谷区成城に分離疎開した。 1945年4月30日のアドルフ・ヒトラーの自殺に際して、都内に残った大使館員は、恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行い、ヒトラーの死を悼んだが、当時の日本政府の反応は冷淡で、外務省の儀典課長を参列させたのみで、弔電や半旗の掲揚などは行わなかった。その後5月9日にフレンスブルク政府が無条件降伏し、連合国によって行われたベルリン宣言により、ドイツに中央政府は存在せず、全土が連合国の統治下に入る旨が決定した。 降伏から1か月後の6月8日、日本政府は「ドイツ政府はもはや存在しない」として、ドイツ大使館並びにドイツ領事館の職務執行停止を正式に通告したことで、駐日ドイツ大使及び外交官としての地位を喪失した。なおこの際に日本政府は「独逸国大使」のスターマー宛に、5月25日の東京大空襲で焼失した旧ドイツ大使館の跡地を外務省の管理下に移すことを通知している。 その後スターマー大使以下旧大使館員は、富士屋ホテルと河口湖に全員軟禁されたが、旧大使館付警察武官兼SD代表のヨーゼフ・マイジンガーは、この様な状況にも拘らず、反ナチ的な活動をする旧大使館員の動向を特高に伝えるなどしたため、フランツ・クラブフ(ドイツ語版)ら旧大使館員たちは、もはや法的な根拠のないマイジンガーの行動を停止させようとして、日本の外務省に抗議した。しかしマイジンガーは特高との個人的関係で動いており、外務省の管轄外であった。
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