円谷プロ・ウルトラシリーズにおけるエピソード
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「実相寺昭雄」の記事における「円谷プロ・ウルトラシリーズにおけるエピソード」の解説
脚本執筆時には「万福寺 百合(まんぷくじ ゆり)」、「川崎 高」のペンネームも使用していた。ともに当時の居住地の川崎市麻生区万福寺と小田急電鉄小田原線百合ヶ丘駅に因んでいる。「川崎 高」は元々貴族的な名をイメージして「川崎 高氏」の筆名で脚本に署名していたのだが、タイトルクレジットに起こす際に「氏」を尊称の氏と勘違いされて省かれてしまい、この名になってしまったと語っている。 ウルトラシリーズの監督、または脚本を担当する際は、ウルトラ戦士の光線技を使って怪獣を倒させるといった行為を嫌っていた傾向があり、実相寺が担当する話でウルトラマンたちが敵を倒す時、ほとんど光線技を使っていない。ただし全くなかったというわけでもなく、『ウルトラセブン』及び『帰ってきたウルトラマン』、1997年には30年ぶりにウルトラシリーズのメガホンをとった『ウルトラマンティガ』で光線技を使用したこともある。 ストーリーをまとめるために、手間をかけた特撮カットを編集で割愛することも多く、特撮スタッフと揉めることも多かった。合成が苦手で、よく合成技術者の中野稔に「少しは飯島敏宏監督を見習ったらどうだ」と言われたといい、光学合成部での打ち合わせが次第に億劫になり、作中で合成をあまり使わなくなったと語っている。 『ウルトラマン』『ウルトラセブン』のメイン脚本家・金城哲夫について「金ちゃん(金城の愛称)が直球をビシビシ決めてくれていたからこそ僕(と佐々木守)は安心して変化球狙いで行くことが出来た」と後に述懐していた。円谷プロの社屋移転が決まった際、実相寺は満田かずほに「旧社屋を残そう」と強く主張した。その後も取材を受ける際にはなにかとこの旧社屋を取材場所に指定していた。満田は「円谷は自分の故郷という感覚があったのだろう」と語っている。 ウルトラシリーズの監督としては、ファンタスティックコレクションなどのマニア向け書籍が刊行され始めた1978年頃の第3次ウルトラブームから知られるようになった。1979年には実相寺の監督作品を再構成した『実相寺昭雄監督作品ウルトラマン』が制作され、その後も実相寺の名を冠したビデオ『怪奇大作戦 実相寺昭雄監督作品集』やLD『怪奇大作戦 実相寺昭雄スペシャル』が発売されるなど、円谷プロダクション作品に参加した監督の中でも別格の扱いとなっている。
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