公共事業・慈善活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/29 09:43 UTC 版)
幼少期から孝友美行が多く、27歳で出口村の組頭、42歳で里正(庄屋)となった。若くしてリーダーとなったことを妬む者もおり、天明の大飢饉の一揆の最中に、「漁民賄賂官長」と讒訴され、30日間投獄されたが無実となり釈放された。その後も善行にさらに磨きをかけ、夜な夜な貧しい家に赴いて銭を投げ入れた。 1798年(寛政10年)には、村吏宛に「当村には茅葺屋根が多く、失火の時に難儀を致します。どうかこの資金を元手に利殖し、瓦葺屋根に葺き替えることをご協議ください」という旨を記した請願書に10金を添えて提出した。 府中中心部を流れる荒谷川には当時飛び石のみで橋がなく、増水の度に往来に支障が出ていた。石州街道の要所にあたり、官吏が往来する度に多くの人手と費用が掛かることを直純は憂慮していた。飛び石付近の「橋本」という姓から、当所には昔必ず橋が架かっていたはずだと考え、1799年(寛政11年)に上流・下流に橋を二本架けた。翌年に橋の1つが崩れ流されたが、直純が修理費を全額負担して再建した。 1800年(寛政12年)には、出口村羽中に灌漑用の池(「むすび池」、または「大戸池」)を造成した。その際の人夫は出口村のみならず近村からも集っており、その費用はすべて直純が賄った。
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