八陣の伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 03:54 UTC 版)
中国伝説上、黄帝臣下の風后(ふうこう)の『握奇経』に記された八陣が始まりとされる。この伝説に基づいて、李荃の『太白陰経』(8世紀)、11世紀では『武経総要』、17世紀には『武備志』などが八陣を研究し、それぞれ解釈するも定説とはならなかった。諸葛亮も八陣を研究していたことが『三国志』に記述され、伝説の八陣を再現・実演したという逸話から、中国では「諸葛亮の八陣」の再現が論じられるようになる。11世紀の李衛は八種の陣とする説を流付する者達を、秘伝兵法を秘匿したい者達のミスリードとし、実際は正方形の布陣だとする主張をしたという逸話もあるが、信頼性は不明とされる。 中国本国でも統一をみなかった八陣だが、「諸葛孔明の八陣」として、8世紀に吉備真備によって、日本へ伝えられ、広められたことが、『続日本紀』天平宝字4年(760年)11月10日条に記述がみられる(大宰府に6人を遣わし、真備から八陣と『孫子』の九地・軍営の作り方を学ばせた)。この八陣がどのようなもの(中国八陣のどの主張)だったのかは実態が不明である。 なお、大江維時が八陣を伝えたとする逸話もあるが、懐疑論がある(訓閲集#平安期成立に対する懐疑論を参照)。ただし、上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家兵法を戦国風に改めた兵書)巻一「発向」では、「魚鱗や鶴翼といった八陣は諸葛亮の八陣ではない」と否定した上で、和風八陣について説明し、「上古では、黄帝の「井田の陣」を八陣といった」と図を記して説明している(従って、すでに和風八陣と中国八陣を区別する認識はあった)。
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