八郎に関する伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 06:16 UTC 版)
岩手県紫波町の小屋敷地内にある稲荷街道の道端には藤原秀衡の六男で泰衡の末弟である錦戸太郎頼衡(藤原頼衡)の墓と伝えられている自然石の角柱がある。その頂部は斜に切断されているが、これについて次のような伝承が伝わっている。頼衡は父秀衡の死後、源義経に通じたことから次兄の泰衡との間に不和が生じた。身の危険を感じた頼衡は密かに平泉を脱出して北方に逃走したが、現在の紫波町と雫石町の境にある東根山の山麓で追っ手に捕らえられて殺害されてしまったという。この時頼衡は16歳前後だったとされる。これを憐れんだ里人たちが現地に遺骸を葬って懇ろに供養し、その上に自然石を立てて墓印としたのが、今に伝えられる頼衡の墓であるという。ところが、これを聞いた平泉の泰衡は、烈火のように怒って直ちに墓石を取りはらうように命じた。里人たちは、止む無くそれを取り覗いて近くのやぶへ捨ててしまった。それから間もないある晩のこと、当時奥羽きっての強力者として有名であった由利八郎がこの地に通りかかったが、かの墓石を捨てたあたりまでくると、草むらの中か妖しげな光り物がポーと浮かんできた。八郎は「狐狸のしわざに相違ない」と思いながら、腰の大刀を抜いて激しくこれを斬りつけた。その途端「カチン」という音がしたと思うと、光り物はゆらゆらと揺れながら飛び出してきた。八郎はその後を追いかけたが錦戸太郎の墓までくると消えてなくなった。気がつくと八郎の体は汗で満たされていた。そして急に疲れが襲って来た。翌朝、この話を聞いて里人たちが墓のところに来てみると、取り除いたはずの墓石がもとの通りに立っていたのである。そして、よく見ると頂部が斜に切断されていた。里人たちは「八郎の怪力にたよって墓石をもどしてもらったのだろう」と噂したという。
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