八幡山古墳 (行田市)とは? わかりやすく解説

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八幡山古墳 (行田市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 03:23 UTC 版)

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八幡山古墳

石室開口部
別名 関東の石舞台
所属 若小玉古墳群
所在地 埼玉県行田市藤原町
位置 北緯36度8分34.31秒 東経139度29分11.26秒 / 北緯36.1428639度 東経139.4864611度 / 36.1428639; 139.4864611座標: 北緯36度8分34.31秒 東経139度29分11.26秒 / 北緯36.1428639度 東経139.4864611度 / 36.1428639; 139.4864611
形状 円墳(周壕有り)
規模 径約80メートル、高さ9.5メートル
出土品 の破片
築造時期 7世紀前期~中期
被葬者 伝・物部連兄麿
史跡 1944年(昭和19年)県指定[1]
地図
八幡山古墳
埼玉県内の所在地
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八幡山古墳(はちまんやまこふん)は、埼玉県行田市藤原町にある古墳。形状は円墳若小玉古墳群を構成する古墳の1つ。埼玉県指定史跡に指定されている[1]

横穴式石室が露出しており「関東の石舞台」と形容されることもある。

概要

石室俯瞰図
石室展開図

墳丘は削平されて石室が露出しているが、径約80メートル、高さ9.5メートルと考えられている。江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』に、横穴式石室の一部が露出し、石室内に八幡社が祀られていたことが記載されている[2]。その頃から既に石室の一部が露出していたが、1934年(昭和9年)11月に小針沼干拓工事で盛土が取りさられて石室が完全に露出した。その様子が、奈良県明日香村石舞台古墳に似ていることから、考古学者大場磐雄が「関東の石舞台」と形容した。横穴式石室は天井石が崩落しており、正確な測量値は不詳であるが、構造は羨道・前室・中室・奥室からなり、全長は16.7メートル、奥室の高さ3.1メートルとされている[3]

1977年(昭和52年)の発掘調査で、絹布に繰り返しを塗り重ねて作られたの破片(乾漆棺、漆塗木棺片)が出土した。この棺や副葬品から、古墳の築造年代は7世紀中頃と推定される。漆塗りの棺は畿内でも高い階層に限られており、被葬者は宮廷と親密な関係の人物と考えられている。被葬者を633年武蔵国造に任命された物部兄麻呂とする説がある[1][4]

1993年(平成5年)12月10日~26日の発掘調査で古墳の規模が従来よりやや大きい、直径80メートルであることが判明した[5]

画像ギャラリー

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 行田市教育委員会生涯学習部文化財保護課文化財保護担当 (2015年11月2日). “八幡山古墳石室”. 行田市. 2020年7月16日閲覧。
  2. ^ 新編武蔵風土記稿 若小玉村 八幡社.
  3. ^ 大塚, 小林 & 熊野 1989.
  4. ^ 田代 et al. 2010, p. 46.
  5. ^ 埼玉県立さきたま資料館 1994.

参考文献

関連項目

外部リンク




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