光復(解放)後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 23:55 UTC 版)
日本が降伏すると、彼が帰国する前から、人民委員会の前身である北朝鮮五道行政局で、曺晩植に次ぐ副委員長に選ばれた。 武亭は義勇軍と共に北朝鮮に帰還しようとしたが、中国共産党の影響を排除する駐北朝鮮ソ連軍の方針で兵士は武装解除され、自身も個人の立場で帰国することを求められた。このことで金日成とソ連軍に対し反感を抱いた武亭は、各地で金日成とソ連を批判する遊説を行った。 1946年8月の北朝鮮労働党第1回党大会(結党大会)において党中央委員に選出されたが、金日成は、名声も経歴もあり、服従的でなかった武亭を保安幹部訓練大隊砲兵副司令官に降格させた。大隊本部総参謀長の安吉が病死すると臨時代理となる。代理を務めていた間、金日成に相談せずに独自の指揮方針を打ち立てたり、独断で指令を出すなどして金日成の顰蹙を買った。 武亭はその後もしばしば自らの経歴を誇示し金日成と対立した。その名声と中国共産党とのつながりから粛清されることこそなかったが、率いる延安派は、実戦経験、軍事理論で北朝鮮内の他派閥より優れていても、ソ連に後押しされる満州派に阻まれ、要職には就けなかった。武亭は人となりが剛直で政治闘争の能力に欠けており、金日成への個人崇拝を批判することで立場を悪化させた。 1948年3月の第2回党大会において党中央委員に再選。同年9月、民族保衛省砲兵指揮局長。
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