倉野の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 01:55 UTC 版)
倉野という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国入来院のうちであった。建長2年(1250年)の入来院内村々田地年貢等注文に「くらのの村」と見える。総田数は21町20代であった。永仁6年(1298年)の「異国要害石築地配分案」によると、倉野は清色(現・入来町浦之名)、塔原(現・樋脇町塔之原)、中村(現・中村町)などの半分が割り当てられている。 入来院は鎌倉時代初期は御家人である千葉氏の所領であったが、宝治年間に千葉氏が没落した後、相模の渋谷氏(のちの入来院氏)が地頭として入部した。渋谷氏は院内の村々を子息に分割したとされ、初代の渋谷定心(入来院定心とも)の末子が倉野氏の称している。倉野城の南に倉野氏によって創建された瑞泉庵があり、鎌倉時代末期には倉野磨崖仏が彫られた。倉野城は鎌倉時代後期になると倉野氏の居城となった。入来院氏と島津氏の抗争が激化した応永3年(1396年)から応永4年(1397年)にかけて島津元久の本陣が倉野に置かれた。 室町時代には倉野氏一族のものとされる墓石塔群が造られた。戦国時代の文禄年間に行われた検地後の倉野は島津氏直轄領となった。
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