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伊奈城

(伊奈城趾公園 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 00:00 UTC 版)

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伊奈城
愛知県
伊奈城趾公園
別名 上嶋古城[1]
城郭構造 平城
天守構造 無し
築城主 本多定忠
築城年 15世紀中ごろ
主な城主 伊奈本多氏
廃城年 1590年天正18年)
遺構 曲輪土塁
指定文化財 豊川市指定史跡[2]
再建造物 模擬櫓
位置 北緯34度47分37.7秒 東経137度20分04.4秒 / 北緯34.793806度 東経137.334556度 / 34.793806; 137.334556
地図
伊奈城
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伊奈城(いなじょう)は、愛知県豊川市伊奈町にあった日本の城。豊川市指定史跡[2]

概要

室町時代に本多定忠・本多定助によって築城された中世城館で、約150年間伊奈本多氏の居城であった。

主郭は深田の中にあり河川に囲まれ主郭周囲は土塁でめぐらされていた方形居館型の城郭[3]

徳川家家紋葵の紋」発祥ゆかりの地として知られている。

沿革

15世紀中ごろ、本多定忠・定助が伊奈城を築城[4][注釈 1]

文明年間(1469年-1487年)ころ、幕府直轄領になっていた[7]

大永6年(1526年)ころ、今橋牧野氏の勢力下になっていた[7]

享禄2年(1529年)松平清康吉田城攻めの後田原城を従属。本多正忠は松平勢に参戦、清康を伊奈城に招き祝宴を開く[8][6][7]。 このときの逸話が「葵の紋」発祥ゆかりの地の由縁となる[9][10]

天文17年(1548年)ころ、今川氏統治下本多氏が領地回復[7]

永禄年間(1558年-1570年)大塚の岩瀬氏に攻められたが柳堤にてこれを退ける[6]

永禄6年(1563年)今川氏に伊奈城一円の確保を命じられ本地還付と新知扶助を約束[7]

永禄7年(1564年)徳川家康東三河に進出、この時本多忠次は家康に従属し功をなす[6]

天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い本多氏は下総国小篠に国替えとなり廃城。

歴代城主

廃城後

文化10年(1813年)膳所藩主本多家家臣黒田忠明が花ヶ池に建碑[11]

大正2年(1913年)元膳所藩藩士平田好の篤志に基づき伊奈城趾土塁上に建碑[12]

平成6年(1994年) 発掘調査実施 堀跡・逆茂木跡、礎石等の遺構などが確認された[5]

平成9年(1997年) 小坂井町(現豊川市)史跡に指定。公園として整備。

縄張り

湿地帯(深田)に立地し主郭は三方を河川に囲まれ、周囲の土塁上に3か所の矢倉を有し、主郭内には生念台とよばれる火葬施設があった[5]

周りには腰曲輪が付属し南虎口には馬出に似た構造をもち南方の屋敷に通じる城道につながる。また、主郭周囲の河川は河口から城下まで船で行き来できたと云われている[3][13]

遺構

土塁

郭跡と主郭北側の土塁が残る。

1997年(平成9年)3月3日に「花ヶ池」とともに町の史跡に指定された[2]

同年、公園整備に伴い堀・逆茂木等発掘調査で発見された遺構を模したものが配されている。

土塁上に建つ石碑は大正2年(1913年)(忠俊三百五十年忌)に元膳所藩藩士平田好の篤志に基づき建てたもの。前面は元膳所藩藩主本多康穣[12]

花ヶ池

「葵の紋」発祥にまつわる城域の池。「葵ヶ池」とも呼ばれた。

平成9年(1997年)に「花ヶ池公園」(同町丸ノ内)として整備された。

池内に建つ石碑は文化10年(1813年)膳所藩主本多家家臣黒田忠明が建てたもの[11]

仲仙寺 山門

伊奈城廃城後、城門が伊奈本多氏の菩提寺 東漸寺に移築、後年仲仙寺(同市御津町金野)に移されたと伝わる[6]

「葵の紋」発祥にまつわる逸話

岡崎の松平清康が吉田城を攻めの際、伊奈の本多正忠は最初に清康に味方し先陣をきって攻め入り勝利に貢献した。その後、正忠は清康を伊奈城に招き祝宴を開いた。 この時、正忠は池の水葵の葉に酒肴を盛って差し出した。清康はこれを見て 「立葵は正忠の家紋である。この戦で正忠は最初に味方になり勝利した。これは吉例である。」と本多家の立葵の家紋を望み求めた。これ以後、松平家の家紋としたと伝えられている[9][14][15]。 (『藩翰譜新井白石編)

アクセス

鉄道

東海旅客鉄道(JR東海)

自家用車

周辺

  • 花ヶ池公園(同町丸ノ内)
    • 「葵の紋」発祥にまつわる池。市指定史跡[2]
  • 東漸寺(同町縫殿)
    • 本多正時が菩提寺として開基。舞々辻にあった五輪塔等が移され伊奈城主五代の墓所として再建[16]
  • 本多忠俊公夫妻の埋葬地(同町松間)
    • 本多忠俊夫妻の埋葬塚で「お松見」が造られる以前の墓所であったと考えられている[17]
  • 舞々辻(まいまいつじ)墓所跡(同町舞々辻)
    • 前山神社付近に伊奈城主累代の墓所があったとされ、大正のころには消失している。当地にあった五輪塔等は東漸寺に移された[16]
  • 若宮八幡社(同町宮坪)
    • 本多正時の時に社殿を再建、正時が植えたと伝わるイヌマキ2本(若宮八幡社のイヌマキ)が残る[18]
  • 永正寺(同町大明神)

脚注

注釈

  1. ^ 室町時代中期、本多定忠とするもの[5]、永享12年(1440年)本多定忠とするもの[6]、享徳年間(1452年-1455年)とするものなどもある。

出典

  1. ^ 三河国二葉松
  2. ^ a b c d e 「豊川市の指定文化財」豊川市の指定・登録文化財一覧)豊川市公式HP
  3. ^ a b 『愛知県 中世城館跡調査報告3』愛知県教育委員会,1997年, P204
  4. ^ 伊奈城趾公園現地説明板『伊奈城概説』,豊川市教育委員会・伊奈史跡保存会,2024年3月閲覧
  5. ^ a b c 『伊奈城趾』小坂井町教育委員会,1995年3月
  6. ^ a b c d e 『小坂井町誌』1976年,p=162-168
  7. ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典23愛知』地名編纂委員会,1989年,p=168.2016-2017
  8. ^ 『徳川家御紋章起源三州伊奈城』葵尋常高等小学校,明治41年7月
  9. ^ a b 伊奈城趾公園現地説明板『葵の紋発祥ゆかりの地』,豊川市教育委員会,2024年3月閲覧
  10. ^ 花ヶ池公園石碑『花ヶ池と葵の紋』,2024年3月閲覧
  11. ^ a b 『三河金石文字集』三河全国高等小学校長会,大正8年,p=119
  12. ^ a b 伊奈城趾石碑『吉田城趾』平田好,2024年3月閲覧
  13. ^ 伊奈城趾公園石碑『伊奈城図(東漸寺蔵)』,2024年3月閲覧
  14. ^ 『三州伊奈本多家関係資料』伊奈史跡保存会 小坂井町教育委員会,平成15年2月,p=140
  15. ^ 『藩翰譜 第1−4上』,新井白石 著 大槻如電 校,明治27年 - 国立国会図書館デジタルコレクション、75頁、2025年3月閲覧
  16. ^ a b c 。『小坂井町の史跡と文化財』2000年10月
  17. ^ 現地説明板,豊川市教育委員会,2024年3月閲覧
  18. ^ 市指定天然記念物「若宮八幡社のイヌマキ」2011年8月11日指定,「豊川市の指定文化財」豊川市の指定・登録文化財一覧(令和4年2月17日現在)豊川市,2024年3月閲覧
  19. ^ 『小坂井町誌』1976年,p=756-758

関連項目

外部リンク




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