交子の発行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:40 UTC 版)
鉄銭は銅銭に比べて重く、持ち運びに不便であり、またそのことから銅銭に比べて十分の一程度の価値しか持たなかった。そこに四川の中心都市・成都の16の交子鋪が組合を作り、鉄銭を預かってその預かり証書として交子を発行した。この16の交子鋪は政府より認可を受けて四川での交子の発行を独占し、信用を高めたので重い鉄銭よりも交子の方が重用されるようになり、他の土地の交子や会子を圧倒した。 その後、四川の交子鋪は事業に失敗して銅銭の準備高が足りなくなり、不払いを起こした。1023年、これを見ていた政府は交子の利益に目を付けて官業とし、民間では禁じた。宋政府は本銭(兌換準備金)として36万緡(貫)を備え、発行限度額を125万余緡として、交子を流通させた。ここに至って交子は手形ではなく紙幣となった。 交子はその利便性から需要が増え、また宋政府は北方の遼・西夏との軍事費に当てるための財源として交子を欲し、神宗の1072年に発行額を倍に増やし、その後も増え続け、次第に乱発気味になって徽宗の1106年には2600万緡と当初の20倍以上に膨れ上がった。濫発と共に兌換が停止され、交子の価値は一気に下落し、額面一貫の交子が銭十数文としか取引されないようになった。 ここに至って交子の流通は止まり、政府は1107年に交子に代わって銭引を発行するようになった。後に南宋になってから銭引もまた信用を落として代わりに会子が発行されるようになった。 南宋では銅銭の発行が減ったため、紙幣である会子の発行が急増した。地方によって紙幣が異なり、行在会子(東南会子)、淮南交子、湖広会子、四川の銭引などがあった。会子の発行は1界ごとに増加し、宋金戦争の時代には1億4000万貫、モンゴル・南宋戦争の時代には6億5000万貫と大量発行された。
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