事件後の大村藩の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/06 01:57 UTC 版)
事件後、家中の者や領民の子孫が不孝不忠の罪に問われないよう、日ごろの行動まで監視しなければならないとされ、そのため大村藩では特に厳重に宗教統制が徹底されることになった。 藩内の在地家臣団からキリスト教を信仰しないことを誓った起請文を提出させ、キリシタンの発生を未然に防止するため27ヵ条からなる村々制法を制定。キリシタン遺物・墓碑などは全て破壊され、当時中止されていた絵踏が再開した。五人組連座による厳格なキリシタン取り締まりが実施され、類族改制度によって殉教者の子孫は生涯監視されることとなった。その後も徹底的に取り締まりが行われたため、外海、平島、浦上4ヵ村をのぞいて、大村から潜伏キリシタンはいなくなったと言われる。 これにより同藩では「切支丹」を取り締まるという名目で、キリスト教に限らず怪しいと見込んだ宗教活動全般も規制の対象とするようになっていった。 寛政9年(1797年)、福江藩主の五島盛運の要望により大村藩主大村純尹は外海地方の農民を移住させることとなった。同地に住む隠れキリシタン(潜伏キリシタン)たちの多くは、人口増加を抑えるための間引き制度を嫌ったこと、キリシタンの取り締まりが大村ほど厳しくないということから、福江藩の五島列島へと移住していった。なお、五島に移住したキリシタンたちの子孫は、明治時代に五島崩れで弾圧を受けることとなる。
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