乳母車夏の怒濤によこむきに
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評 言 | 私は、寺山修司と出逢うことにより俳句を知ったのだが、その寺山が愛唱していた句のひとつでもある。 海岸に置かれている乳母車に焦点を絞った、即物的描法であるが、乳母車のもつ幼きもの、か弱きものに連なるイメージと、怒濤のもつ狂暴なイメージとの対比によって、そこに緊迫感、不安感、危機感、そして、いとけなきものへのいとおしみが表出されている――。これが一般的鑑賞であろう。 しかし、私はそのように考えられないのである。否、考えられないところに、考えられないからこそ、この句に惹かれるのだ。所謂通説は、(これは俳句の鑑賞でよくありがちことだが)事実に引っ張られ過ぎているともいえる。(場所は大森海岸、乳母車は作者の孫を乗せたものらしい。)乳母車に乗っているのが作者の子どもや孫であろうと、他人であろうと、そんな事実的なことは消し去られ、作者は、ただひたすら、浜辺に激しく打ち寄せる高波に対して、ぽつんと停められた乳母車を、何かを待っているような、ある種恍惚とした表情で、じっと見つめている――そういう情景が浮かんでくる。そこに、この句の俳句としての表現の凄さを感じるのだ。 因みに、寺山はこの句の乳母車はポランスキーの映画「ローズマリーの赤ちゃん」に出てくる、絶壁の上に放置された赤ちゃん入りの乳母車で、潜在的な捨子願望の句である、ということをよく述べていた。 私は、三島由紀夫の「真夏の死」のラストの場面――(突然、海で二人の子どもを喪うという悲劇を体験した女性が、再びその忌まわしい事故のあった海岸を訪れ、じっと海を見て立ち尽くしている――)が、この句と重なってくるのである。 |
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