丸亀城下の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/10 06:19 UTC 版)
「南条町 (丸亀市)」の記事における「丸亀城下の成立」の解説
近世には丸亀平野北部の亀山に丸亀城が築かれ、瀬戸内海に面する北側に城下町が形成された。丸亀城の北西、城下の西端に上下の南条町が位置していた。 天正15年(1587年)8月、豊臣秀吉の許しを得て生駒正親が讃岐国の領主として生駒氏入封なる。生駒氏時代の慶長6年(1601年)にはまず御供所町・北平山町・西平山町などが形成され、生駒氏の時代に町割りとして上南条町と下南条町も形成された。その後、寛永18年(1641年)9月、丸亀藩の前身である西讃岐領主として山崎家治入封し丸亀藩の地政学的な基盤が整う。万治元年(1658年)2月、京極高次が、将軍家綱より丸亀城と5万石に加え播州龍野領内1万石の領地を約束され、同年5月5日に丸亀城に入場し京極氏入封となる。京極氏入封直後の戸口は、上南条町が家数38、人数397であり、下南条町が家数45、人数405である。山崎氏・京極氏の時代に複数の寺が建立されており、法音寺、宗泉寺、寿覚院、玄要寺、本照寺がある。 万治年間(1658年-1661年)に描かれた城下図には、上下の南条町の部分に寺屋敷が記されている。一方で北平山町にも寺屋敷が配されており、丸亀城下は東西(西は上下の南条町、東は北平山町)に寺町を有していた。江戸時代後期の丸亀城下は金刀比羅宮参詣客でにぎわい、湊から上陸した参詣客は、南条町や農人町の通りから中府門を通って金毘羅街道に入った。
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