下南条町(-1878)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/10 06:19 UTC 版)
「南条町 (丸亀市)」の記事における「下南条町(-1878)」の解説
北側には下南条町が、南側には上南条町が位置し、それぞれの中央部を金毘羅街道が貫いていた。下南条町は商業地として発展し、西側の広い区域を寺院が占めている。下南条町の北川は横町、東側は塩飽町、南側は上南条町であり、西側は那珂郡地方村であった。上下の南条町はいずれも古町と総称される町のひとつであり、生駒氏時代に成立したとされる。 『丸亀市史』によると、生駒氏が丸亀城下を建設した際、阿野郡南条(現・綾歌郡綾上町)から住民を移住させたという。万治年間に描かれた城下図では通りの西側が寺屋敷となっており、寿覚院、宗泉寺、本照寺、法音寺が描かれている。法音寺には歌人の井上通女の墓所がある。 『西讃府志』によると、戸数は94戸、人口は260人(調査時期不明)。1871年(明治4年)時点の面積は4,670坪余だった。明治初期には宗泉寺内に南条小学校が置かれたが、後に浜町の亀湾小学校に吸収された。1884年(明治17年)には高松市にあった芝居小屋「旭座」を修築して、法音寺の東側に芝居小屋「戎座」が建てられた。「戎座」の初演は二代目 中村雀右衛門と實川延三郎一座の金毘羅利生記。戎座は、その後1924年(大正13年)まで存続したことが確認されている。
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