両党制から多党制へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 13:46 UTC 版)
「韓国における政党史」の記事における「両党制から多党制へ」の解説
政権掌握した新軍部勢力は、三〜四程度の政党からなる多党制(正確に言えば非競合政党制の「ヘゲモニー政党制」)を指向し、自分たちを脅かす野党勢力の進出を封じ込めようと考えた(全斗煥大統領自身も、両党制が朴正熙政権時代における政治の両極化と極限化を招いたとして、多党制を指向する旨の発言を記者会見でしている)。また選挙制度も定数2名の中選挙区制と全国区(比例代表制)との並立制とし、有力野党を複数誕生させるにした。政治資金の法律に関しても4大政党を優遇する政党補助金制度を新たに創設した。そして新軍部が事実上制定した第五共和国憲法の公布と同時に、朴正熙与党の民主共和党、野党の新民党など第四共和国における政党は全て解散させられた。 政治活動禁止措置が解禁された後、新軍部は朴正熙政権時と同様に与党としての民主正義党(民正党)を1981年1月18日に創党した。一方の野党勢力も、旧新民党の政治家を主体とした民主韓国党(民韓党)、旧共和党及び維新政友会の政治家を主体とする韓国国民党(国民党)が相次いで創党された。しかし、金泳三・金大中・金鍾泌のいわゆる「三金」を初めとする与野党の有力政治家は軒並み“政治風土刷新のための特別措置法”によって、政界を強制追放させられたため、野党は軒並み、官製色が強いものとなった。
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