下邽県とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 下邽県の意味・解説 

下邽県

(下ケイ県 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/29 00:32 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

下邽県(かけい-けん)は、かつて中国にあったの一つである。現在の陝西省渭南市臨渭区下邽鎮にあたる。

歴史

紀元前7世紀に武公が異民族の邽を征服し、現在の甘粛省に上邽県を置いた。その邽の人が移り住んだため、下邽の名が付けられたという[1]

前漢では京兆尹の下に置かれた[2]

後漢書』郡国志には見えない。しかし、後漢末に華歆が下邽の県令への転出を願ったことがあり[3]、いったん廃止されたとしても再度設置されたようである。

西晋では馮翊郡の下に置かれた[4]

代に華州延寿郡に属したが[5]開皇3年(583年)11月に全国で郡が廃止になったため[6]、華州に直属した。大業3年(607年)4月にふたたび全国に郡が置かれたとき、馮翊郡に属した[5]。またこの頃蓮勺県を合併した。

が建国した武徳元年(618年)に馮翊郡は同州に改称した。垂拱元年(685年)に下邽県は隣の華州に移管した。その後の華州は、垂拱2年(686年)に太州、天宝元年(742年)に華陰郡、乾元元年(758年)にまた華州、上元(760年)にまた太州、宝応元年(762年)にまた華州とたびたび改称したが、下邽県はずっとその下にあった[7]

北宋では華州の下に置かれた[8]

の時代にも華州の下にあり、管内に素化鎮と新市鎮の2があった[9]明昌3年(1192年)12月に、下邽県に武定鎮が置かれた[10]

行政官

  • 下邽尉(県尉)
    • 趙公儀 - 唐[12]
    • 薛存亮 - 唐[13]

公侯

脚注

  1. ^ 『漢書』地理志第8上への応劭顔師古の注。「漢籍全文資料庫」、2017年5月閲覧。
  2. ^ 班固『漢書』地理志第8上。ちくま学芸文庫『漢書』3、277頁。
  3. ^ 『三国志』魏書、鍾繇華歆王朗伝。ちくま学芸文庫『正史三国志』2、470頁。
  4. ^ 『晋書』志第4地理上、雍州、馮翊郡。
  5. ^ a b 『隋書』志第24地理上、雍州、馮翊郡。
  6. ^ 『隋書』帝紀第1高祖楊堅上、開皇3年11月甲午条。『隋書』志第24地理上、冒頭解説文。
  7. ^ 『旧唐書』、志第18地理1、十道郡国1、関内道。
  8. ^ 『宋史』志第40地理3、陝西路、永興軍路、華州。
  9. ^ 『金史』志第7、地理下、京兆府路、華州。
  10. ^ 『金史』本紀第9、章宗璟1、明昌3年12月丁巳条。
  11. ^ 『新唐書』表第13下、宰相世系3下、陸氏、太尉枝。
  12. ^ 『新唐書』表第13下、宰相世系3下、趙氏、新安趙氏。
  13. ^ 『新唐書』表第13下、宰相世系3下、薛氏、南祖。
  14. ^ 『新唐書』表第12下、宰相世系2下、崔氏、南祖崔氏。
  15. ^ 『宋史』列伝第35宋璫。
  16. ^ 『周書』列伝第17李賢。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  下邽県のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「下邽県」の関連用語

下邽県のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



下邽県のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの下邽県 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS