上香西氏
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元直の子・香西元長は、勝元の子・管領・細川政元の助力を得、明応6年(1497年)には山城守護代となった。元長は細川政元の養子・澄之(九条家)・高国(野州家)・澄元(阿波細川家)のうち澄之に属し、永正4年(1507年)に元長は、薬師寺長忠・竹田孫七らと図り細川政元を謀殺し、澄元及び三好之長らの澄元派を京から一掃して、11代将軍・足利義澄に細川家後嗣として澄之を認めさせた(永正の錯乱)。しかし、その直後、澄元を支援した細川高国・尚春(淡路守護家)によって、細川澄之・香西元長らは京で討たれた。 更に細川澄元と三好之長は、讃岐において植田三家の十河氏と図り、香西氏・寒川氏らを攻めたが、周防の雄・大内義興に擁立された10代将軍・足利義稙が上洛を開始し、これに香西氏だけでなく香川氏も応じ、更に細川高国が寝返ったため、細川澄元・三好之長は讃岐及び畿内において勢力を失った。 元長の跡を継いだ香西元盛は、波多野清秀(丹波)の子であり、管領・細川高国に仕えたが、大永6年(1526年)、讒言により自害させられた。これに憤った元盛の兄弟・波多野元清と柳本賢治が細川澄元の子・晴元と通じ高国に対して反旗を翻したため、高国政権は崩壊した(桂川原の戦い)。 元盛の跡を継いだ香西元成(越後守)は丹波国を拠点として、管領・細川晴元に仕え、三好政勝と共に三好長慶に抗したが、永禄3年(1560年)、炭山城(山城)で戦死した。 上香西氏の名跡を継いだ香西長信(越後守)は、元亀元年(1570年)、野田・福島(摂津国)に籠もって織田信長に対抗するが、三好政勝と共に投降した(野田・福島の戦い)。その後離反し、天正3年(1575年)に新堀城(摂津)に籠城するも敗れ、斬首された(高屋城の戦い)。
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