上海への駐留
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 10:03 UTC 版)
同年9月に上海周辺での戦闘が終わり、情勢が一応安定すると、派遣された陸戦隊の多くは日本本土に撤収した。ただし、警備強化の必要性にかんがみ、特別陸戦隊の一部は第一遣外艦隊隷下に上海陸戦隊の名で残されることになった。その兵力は1928年(昭和3年)6月時点で600人であったが、満州事変が勃発すると若干増強されて900人となった。日本人が多く居住する虹口区に本部を置き、1929年に本部ビルを建設した。輸入したヴィッカース・クロスレイ装甲車も少なくとも7両が配備された。この間、第二次山東出兵では、上海陸戦隊から200人が出動した。 1932年(昭和7年)1月には第一次上海事変が発生し、上海陸戦隊は中国十九路軍と本格的な武力衝突を経験した。鮫島具重大佐を指揮官とする上海陸戦隊は、戦闘が始まった1月28日には、直前に増派された2個大隊を合わせて特別陸戦隊1800人の兵力だった。それが2月2日には事変勃発により新設された第三艦隊に編入され、第三艦隊司令長官の直率部隊に変わった。指揮官には第三艦隊司令部付となっていた植松練磨少将が着任し、鮫島大佐は参謀長となった。特別陸戦隊4個大隊の増派や艦船陸戦隊の揚陸があり、7個大隊と特科隊、漢口派遣隊1個中隊の兵力となっている。それでも中国軍に比べて兵力で大きく劣ったが、航空母艦による航空支援を受けて、陸軍部隊の到着まで租界の防衛に成功した。
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