三宅嘯山とは? わかりやすく解説

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みやけ‐しょうざん〔‐セウザン〕【三宅嘯山】

読み方:みやけしょうざん

1718〜1801]江戸中期俳人儒学者京都の人。名は芳隆。字(あざな)は之元。別号亭(りってい)など。俳諧長じ炭太祇与謝蕪村らと交わり、独自の俳境を開いた編著俳諧古選」「俳諧新選」、漢詩嘯山詩集」など。


三宅嘯山

読み方みやけ しょうざん

江戸後期儒学者俳人医者。名は芳隆、字は子元、別号亭・斎。三宅観瀾一族京都生。儒者として青蓮院宮侍講となる。また俳諧長じ炭太祇与謝蕪村らと親交天明中興俳壇一人優れた鑑賞眼俳論書いた著書に『俳諧古選』『俳諧新選』等がある。享和元年(1801)歿、84才。

三宅嘯山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 07:30 UTC 版)

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三宅 嘯山(みやけ しょうざん、享保3年3月25日1718年4月25日)- 享和元年4月14日1801年5月27日))は、江戸時代俳諧師文人。本名は三宅芳隆、字は之元・文中、号は葎亭・滄浪居・橘斎・鴨流軒・碧玉江山人。三宅観瀾・三宅石庵の同族で、妻は松尾芭蕉門下の俳人・望月木節の孫に当たる。

略歴

京都質商でありながら、仁和寺青蓮院の侍講も務めた学者であり、俳壇の重鎮であった。それだけでなく、『宇治大納言物語』の校訂、随筆や読本の刊行、俳諧に関する評論など、和漢雅俗のあらゆる分野に通じた文人であった。「質直寡言」「矜厳自持」と評される謹直な人柄で、人々からの信望も厚かった[1]

以下、『日本古典文学大辞典』3巻の記述[1]に基づき、略歴を記す。

寛保元年(1741年)、望月宋屋に俳諧を学び、延享2年(1745年)に慧訓和尚に学ぶ。宝暦年間には蝶夢与謝蕪村・雅因などの俳諧師と知り合い、宝暦5年(1755年)までに俳諧点者として立机したと推定される。芥川丹邱などの影響で白話小説にも通じており、宝暦9年(1759年)には『通俗酔菩提全伝』を刊行し、その後も『通俗大明女仙伝』を刊行する。宝暦13年(1763年)『俳諧古選』において、元禄期俳諧への回帰を唱えて名声が高まる。明和3年(1766年)、太祇・随古と歌仙二十巻を興行し、明和6年(1769年)『平安二十歌仙』を刊行する。安永2年(1773年)『俳諧新選』を刊行。寛政元年(1789年)『嘯山詩集』の自筆稿本が成立し、寛政12年(1800年)自身最大の撰集『独喰』を刊行する。墓碑銘によれば、享和元年4月14日没。享年84歳。墓所は京都北野の立本寺にある。

著作

訳書
  • 『通俗酔菩提全伝』
  • 『通俗大明女仙伝』
俳論
  • 『俳諧古選』
  • 『俳諧新選』
撰集
  • 『かめのせ』
  • 『蘆の錦』
  • 『花筏』
  • 『独喰』など
紀行文
  • 『はまゑんざ』
  • 『許野消息』

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 日本古典文学大辞典編集員会 『日本古典文学大辞典』 3巻 岩波書店、1991年10月、344頁。 



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