三好元長・柳本賢治の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:31 UTC 版)
大永7年10月、三好元長が高国側の摂津国衆伊丹元扶を攻める間、近江守護六角定頼・越前守護朝倉孝景の援軍を得た将軍義晴と高国の軍が、手薄になった京都に進撃して堺公方側の河内守護畠山義堯(義宣)を破った。これに対して元長が摂津から、柳本賢治が丹波から反撃し、京都郊外でしばらく小規模な戦闘が続いた。 堺公方側が次第に優勢にはなったものの戦線が膠着すると、翌大永8年(1528年)1月、六角定頼の仲介で元長と高国の間に和睦交渉が持たれた。これに反発した波多野・柳本が堺の細川晴元のもとに赴いて讒訴し、晴元が元長との面会を拒むという事態になった。ただ、この交渉は決裂し、将軍と高国は5月に京都を離れ再び近江へ退去した。 元長はこれまでの功により山城国下五郡(京都周辺)の守護代に任じられ、7月に京都で地子銭の徴収を強行したが、京都はもともと波多野・柳本が押さえたものだったから、双方の確執をさらに深めることとなった。 8月、朝廷は大永8年を享禄元年に改めたが、この改元について近江の将軍とは協議しながら堺公方には相談がなかった。朝廷が将軍側ほどには堺公方側を信任していないことを示すものであり、義維の将軍任官も確実視できない。これに不満な堺公方側は、しばらくの間は発給文書に享禄年号を使用しなかった。 三好元長と柳本賢治の内訌は享禄2年(1529年)に入ると激しさを増し、8月に元長が阿波へ逼塞するに至ると、反元長派の三好政長が四国勢を率いることとなった。
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