三中全会後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/16 04:32 UTC 版)
「中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議」の記事における「三中全会後の動き」の解説
中国共産党は三中全会に提出した妥協案を撤回し、1935年の八・一宣言以来の妥協工作では最後まで拒否していた共産軍の改編を認め、特別区域設定の要求も放棄した。1937年3月5日、国民政府は共産党本来の主義主張は完全に骨抜きとなり事実上中国共産党は姿を消したと発表し、これは国民党が共産党を屈服させものであり、かつての国共合作とは全く性質が異なり、憲政実施後に共産党が左翼政党として復活しても国民党はソビエト政府と共産軍を圧する自信を持つとの説明がなされた。同年6月中国共産党は完全降伏か包囲殲滅を被るか、あるいは北方の砂漠に退却するかを選ばねばならない状態にまで追い込まれたが翌月の盧溝橋事件による日中戦争開始により将の中国共産党完全掃滅計画は放棄され危機を脱した。
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