丁稚制度の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 22:34 UTC 版)
丁稚の数は江戸時代に最も多く、明治維新以降には次第に近代的な商業使用人へと転換されていった。しかし丁稚の名残が残っている飲食店、また美容室の美容師などは、低賃金・長時間労働といったブラック企業が多く、丁稚に近いといえる。 1928年3月13日、東京神田の巌松堂少年店員42人、丁稚奉公制度に抗して争議して、なぐること、名前に「どん」をつけること、玄米食、積立金に反対し、月3回休みなどを要求した。 その後は商家を題材とした古典落語や、花登筐の作品あるいはそのパロディーとしての吉本新喜劇のコメディー(「あっちこっち丁稚」など)を通じて伝えられる存在となった。とくにテレビ放送創生期に放送された「番頭はんと丁稚どん」が人気を博し、当時は丁稚・小僧の制度が消滅していたことも関連して、この様な奉公人をさすことばとして丁稚が全国的に通用するようになった。 また、商店街などが地域活性化と職業への理解を深めてもらうため、中高生に業務を体験してもらうイベントを「丁稚体験」と呼ぶケースがある。(大阪など)
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