一ノ谷の戦いでの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:43 UTC 版)
源範頼・義経の率いる追討軍を迎撃するため、福原に陣営を置いた宗盛は、東の生田口に平知盛、西の一ノ谷口に平忠度、山の手の鵯越口に盛俊を配備して、強固な防御陣を構築する。福原は北に山が迫り、南に海が広がるという天然の要害であり、東西の守備を固めれば難攻不落と思われた。 寿永3年(1184年)2月5日、三草山の戦いで資盛が敗退すると、宗盛は山の手に増援として通盛・教経を向かわせて、北の守備も固めた。2月7日の一ノ谷の戦いで平氏軍は全ての防衛線を突破された。盛俊はもう逃げてもかなわぬと馬を止めて敵を待っていると、源氏方で鹿の角の「一、二の枝」を簡単に引き裂くほどの剛の者猪俣範綱が駆けてくる。腕力に自信があった両者は組討をして地面に落ち、範綱が組み敷かれてしまう。首を斬られかかった範綱は、盛俊の名を尋ね聞いてさらに「命を助けてくれるなら、貴方の一族を自分の恩賞と引き換えに助けよう」と命乞いを始める。それに盛俊は怒り「盛俊は不肖なりとも平家の一門、源氏を頼ろうとは思わない」と範綱の首に刃を立てようとしたところ、範綱に「降伏した者の首を掻くのか」と言われて、押さえ込んでいた範綱を放してやる。二人があぜ道に腰を下ろしていると、人見の四郎という源氏方の武者が駆け寄って来て、それに気をとられた盛俊は範綱に不意に胸を突かれて深い田んぼの中に倒されてしまう。泥濘で身体の自由が利かない盛俊は、このような騙し討ちによって範綱に首を取られてしまった。
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