一ノ谷の戦い・討死?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:24 UTC 版)
寿永3年(1184年)2月4日、義仲を滅ぼした範頼・義経が福原攻略に進発した。平家は福原周辺に防御陣を敷き、教経は兄の通盛とともに山の手を守った。通盛が妻を呼び寄せて別れを惜しもうとすると、教経は「ここはこの教経が差し向けられる程の最も危険な戦場ですぞ。そのような心がけでは、ものの役に立ちますまいに」とたしなめている。 結局、2月7日に行われたこの一ノ谷の戦いで平家は致命的な大敗を喫して、一門の多くを失った。兄の通盛と弟の業盛はここで討ち死にしている。『吾妻鏡』では、教経もこの戦いで安田義定の軍に討たれたとあり、同月13日に討ち取られた他の一門の首とともに京で獄門にされたとある。 ところが、『玉葉』には晒し首になった者たちのうちで教経については生存の風聞がある事を示す記述があり、『醍醐雑事記』などは壇ノ浦の戦いで自害したとしている。一方で、『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの戦果報告の戦死者、捕虜の中には教経の名はない。このために一ノ谷の戦い後の教経については死亡説、生存説があり、はっきりしない。
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