一ノ谷の戦いにおける武功とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:14 UTC 版)
「庄家長」の記事における「一ノ谷の戦いにおける武功とその後」の解説
寿永3年(1184年)2月5日、源氏の両将が摂津国に至り、大手軍の大将軍は源範頼となった。児玉党本宗家の子息である庄氏一族はこれに従い、2月7日、一ノ谷の戦いに参戦する。家長は、平武蔵守朝昌を討ち取り、敗走した生田森の副将軍三位中将平重衡を須磨ノ浦海岸で梶原景季(あるいはその父景時)と共に捕える功績を上げるが、長男である庄小太郎頼家が戦死し、家督を継ぐべき直系が絶える。そこで頼家の弟である三郎右衛門家次を養子にむかえるが、結局、そのまた弟の四郎左衛門尉時家が児玉の庄氏を継ぐ事となる(家次の一族は、その後、備中庄氏となる)。そして、児玉庄氏を頼家に代わって継いだ時家が本庄氏を名乗る事となる。家長は武功をあげた恩賞として備中草壁荘の地頭職を与えられている(この事がきっかけとなって、本庄氏が生じたと考えられる)。 『平家物語』では、重衡生け捕りは庄四郎高家であるとしているが、『源平盛衰記』及び岡山県の『荘家文書』には家長であると記されている。また、『吾妻鏡』では重衡を捕らえたのは「家国」であると書かれているが、他に家国という人物の所見が見られないため、『源平盛衰記』の記述などから家長の誤記と考えられる。研究者の間では、重衡の生け捕りを行なったのは家長であると有力視されているが、これは武功に見合うだけの恩賞を与えられている為である(その他の方も参照)。
※この「一ノ谷の戦いにおける武功とその後」の解説は、「庄家長」の解説の一部です。
「一ノ谷の戦いにおける武功とその後」を含む「庄家長」の記事については、「庄家長」の概要を参照ください。
- 一ノ谷の戦いにおける武功とその後のページへのリンク