ヴェローナ領主として
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「バルトロメオ1世・デッラ・スカラ」の記事における「ヴェローナ領主として」の解説
バルトロメオは戦士としての資質を備えていたが、平和を維持し、都市を統治することを好んだ。実際、1301年9月30日には、トレントの司教と和平協定を結ぶことができた。この平和が求められたのは、バルトロメオ自身がロンバルディアに新たな脅威が生まれつつあることを感じ取っていたからである。ミラノのギベリンが新たな指導者を見つけ、デッラ・スカラ家に代わって北イタリアのギベリンの勢力となろうとしていたのである。実際、マッテオ・ヴィスコンティ(Matteo Visconti)はすでに皇帝の代官に任命されていたので、北からの攻撃の危険性があったが、トレントの国境が平和になったことで、そのようなことは起こらなくなった。和平が成立すると、バルトロメオは直ちに新たな同盟を求め、翌1302年9月7日、ロンバルディア地方の主要なゲルフであるピアチェンツァ公との間で締結された。この同盟は、ミラノを去ることを余儀なくされたヴィスコンティの崩壊を早めるのに重要であった。このようにして、ヴィスコンティ家の拡大の試みは一時的に停止した。 その後は、兄弟と2人の息子フランチェスチーノ(Franceschino、チチーノ(Chichino)と呼ばれる)とバイラルディーノ(Bailardino、非嫡出子)と平和に過ごしていた。治世の最後の年には、ゲルフ族の黒い派閥によってフィレンツェから追放されたダンテ・アリギエーリを迎えた。1304年3月7日に若くして亡くなり、後継者は嫡出の息子ではなく、2番目に生まれた弟のアルボイーノになったため、一族内での争いは避けられた。
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