ヴィレッジ・キング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/20 23:12 UTC 版)
「アンソニー・ストロッロ」の記事における「ヴィレッジ・キング」の解説
グリニッジ・ヴィレッジを拠点に、ロウアー・マンハッタン一帯の宝くじ、競馬、高利貸しを仕切った。喫茶店やレストランも経営し、"ブラック・キャット"、"ザ・ハリウッド"、"ヴィレッジ・イン"、"19th Hole"など多くのナイトクラブを傘下に持った。ジュークボックス販売も手掛け、ジュークボックスメーカーから多額の上納金をせしめて、「ヴィレッジ・キング」の異名をとった。のちガンビーノ一家幹部カーマイン・ファティコとぼったくりゲイ・バーを経営した。1947年麻薬で逮捕されたが、1949年恩赦出所した。この頃までにニュージャージーのパリセーズに引っ越した。 マンハッタンのウエスト・サイドや対岸ジャージーシティのウォーターフロントに進出し、アイルランド系ギャングと臨海区組合を巡って争った。1952年3月14日に行われたジャージー・シティ市長ジョン・V・ケニーとの秘密会談が暴露され、政治スキャンダル化した。配下のアンソニー・”トニー・プロ”・プロヴェンツァーノをチームスター組合に送り込み、一家の組合利権を拡大した。 1950年代、麻薬密売オペレーションの陣頭指揮を執り、ハーレムの黒人ギャングにヘロインを売りさばいた。1952年、ルッケーゼ一家の麻薬密売人でFBN(連邦麻薬捜査局)の雇われ密告屋、ジャンニーニを配下ジョゼフ・ヴァラキなどを使って殺害した。グリニッジ・ヴィレッジのゲイバーを拠点に周辺のゲイ・コミュニティにヘロインの流通を仕掛けたとされる。ジョー・アドニスが国外追放されるとそのニュージャージー臨海区の利権を引き継いだ。表向きの職業は不動産セールスマンだった。
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