ヴァン・ダイク工房
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「アンソニー・ヴァン・ダイク」の記事における「ヴァン・ダイク工房」の解説
ヴァン・ダイクは大きな成功をおさめ、持ち込まれる大量の絵画制作依頼をこなすために、ロンドンに大規模な工房を構えて絵画を量産することを余儀なくされた。そしてこの工房は「実質的に肖像画の生産工場」となっていった。当時のこの工房の訪問者の記録によると、ヴァン・ダイクは紙に下絵を描き、弟子がその下絵をキャンバスに拡大して写した後にヴァン・ダイクが人物の頭部だけを描いた。衣服は工房では描かれず、衣服専門の絵画工房へと送って仕上げられたとなっている。ヴァン・ダイク最晩年の数年間には、このようなほかの工房との共同作業が作品の品質低下の要因となったこともあった。ほとんど、あるいは全くヴァン・ダイクが制作に関与していない絵画作品が工房で制作されることもあり、贋作者や後世の別の画家の作品がヴァン・ダイクの真作であるとして取引されることもあった。レンブラントやティツィアーノといった有名画家と同様に、19世紀になるころにはヴァン・ダイク作とされていた絵画は膨大な数にのぼっている。しかしながらヴァン・ダイクの弟子や贋作者たちは洗練されたその作風に近づくことは出来てはおらず、他の巨匠たちの作品に比べると見極めは容易で、現代の美術史家たちの間でもヴァン・ダイクの作品をめぐっての真贋論争は起きていない。美術館でもヴァン・ダイクの作品を他の画家による作品であると認定する「画家の再特定」はほとんど発生していないが、カントリー・ハウスが所蔵しているヴァン・ダイクの作品の中には真贋がはっきりしていない場合もある。 ヴァン・ダイクの弟子の名前はあまり伝わっていないが、現在判明している数少ない弟子はオランダやフランドルの出身者である。当時のイングランドにはフランドルと同等の画家育成環境は存在しておらず、ヴァン・ダイクもフランドルで基礎修行を積んだ弟子を好んで採用していた。オランダ人画家アドリアン・ハンネマン (en:Adriaen Hanneman)(1604年 - 1671年)は1638年に出身地のデン・ハーグへ帰郷し、肖像画家として大成している。ヴァン・ダイクがイングランド美術界に与えた大きな影響は、自身の弟子たちではなく、ヴァン・ダイクの工房とは無関係な画家たちによって継承されていったのである。
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