リオシノの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 14:21 UTC 版)
10月24日、イスマエル・モンテスとペレス・ベラスコは、プエルト・アロンソに入ったが、駐屯していたボリビア兵は疲弊しており、脚気で死亡したものも多かった。またイスマエル・モンテスらは、現地の不穏な情勢を感じた。 ボリビアが輸出税を課したことに反発していたブラジル人の商人たちは、アクレ地方に入植していたゴム樹液採取者たちを扇動していた。「ボリビア人はゴム林のある土地を没収するためにやって来た」という噂を広めた。またアマゾナス州の州知事もアクレ地方の反乱を積極的に支持した。アマゾナス州は、プエルト・アロンソに物資を運ぶ船舶を足止めにした。少なくとも1,500人の入植者を国境に集め、プエルト・アロンソを襲撃する機会をうかがっていた。 イスマエル・モンテスは、三番隊をメルセデスからアクレ川まで進出させることを決め、メルセデスまで一度引き返した。一方で、二番隊は、11月18日、プエルト・アロンソに入った。しかし、反乱軍がアクレ川の国境付近を封鎖したため、プエルト・アロンソは食料不足に見舞われた。プエルト・アロンソのボリビア兵は食料配給は半減され、また病気の蔓延で兵の病死者が増えていた。 一方、12月上旬には、反乱軍に参加した数は、2,000人に達していた。反乱軍の最大のグループはプエルト・アロンソを包囲していた。また反乱軍の拠点は、プエルト・アロンソからアクレ川の上流にさかのぼった、エンペレサ(西: Empresa、現在のリオブランコのアクレ川の対岸付近)にあった。 イスマエル・モンテスの率いる三番隊は、エンペレサからアクレ川のやや上流に位置するリオシノ(Riosinho)に12月6日に到着した。イスマエル・モンテスは、リオシノ周辺の偵察を実施させたが、反乱軍は見つからなかった。しかし、イスマエル・モンテスは、周囲に堀を掘って陣地を作らせ、防御を固めた。 1900年12月12日、午前6時、反乱軍はリオシノのボリビア軍の陣地を襲撃した。反乱軍は、二方向から攻撃を加えたが、統率がとれておらず、支援が不十分であった。またボリビア軍が装備していた最新式のモーゼルライフルが威力を発揮し、反乱軍を弱気にさせた。2時間の銃撃戦の末、反乱軍はジャングルの中へと後退した。しかし、ボリビア軍は銃撃戦には勝利したが、反乱軍の包囲を突破できなかった。
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